勇者なキミたちへ。
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三浦春馬作品「ふれる」。
子どものときからこの仕事をやってきたけれども、なぜ自分は今もこうして俳優を続けているのか。
この仕事は自分にとってどんな意味を持っているのか。2014年は、そんなことをよく考えました。
この本を作り始めてから、これまでの月日を振り返って、今の僕が感じていること、そしてこれからのことについて、うまく伝えられるかどうかわからないけれども、素直に語ってみたいと思います。
そして今、僕はここにいる。
役者である前に、
ひとりの人間として人生を
大切にしたい。
二〇一五年
この本を作り始めてから今まで、本当にいろんなことがありました。
自分の悩みや迷いを駆け出すのは、美しいことではないかもしれないけれども、また前を向いて歩き始めるためにも、包み隠さず打ち明けたいと思います。
あるテレビ番組に出演させていただいたとき、目標を聞かれて「同世代の役者のなかで一番になりたいんです」とかつての僕は答えていました。そのことが、今となってはとても恥ずかしく思えるのです。一番なんて、一体誰が決めるんだ?少なくとも俳優という職業において、一番は誰のものでもないのだから。
軽々しく答えていた過去の自分を、今ならこんなふうにたしなめるでしょう。厳しい言い方をするなら、あのときの僕は奢っていたと思います。
関わっている作品については二の次で、自分をどう見せるかということのほうに気を取られ、俳優の役割をはき違えていたのです。
俳優としての武器を増やすこと。
この本が動きだした頃の僕がそのことにこだわっていたのも、率直に言ってしまえば「一番」になるための手段でした。
日本舞踊、茶道、弓道、乗馬.....、そういったものを習って基礎的なことを身につければ、”手っ取り早く”成長できそうな気がしていたのです。
実際にさまざまな方のお話を聞き、伝統文化の精神に触れさせてもらったことは、とても貴重な経験でした。日本という国について見直し、新たな発見をすることができたし、学んだことを楽して自分なりの意見を持つこともできたと思っています。しかしそれぞれの奥深い世界に触れるほどに、技術ももちろん大切だけれども、そ
れ以前の哲学がなければダメなのだと気がついたのです。
そのうえで今は、俳優としてというより、ひとりの人間として生きる術、哲学を学びたいというふうに考え方が変わってきています。こうした変化が生まれたのは、2014年に経験した一連の出来事も大きく影響していると思います。
俳優として悩み、自分が進む道を見失いそうになり、もがいた一年でした。
2014年になって間もなく、『僕のいた時間』というドラマの撮影が始まりました。このドラマは自分にとって、これまでICないくらい思い入れの強いものでした。
そもそもは『ラスト♥シンデレラ』というドラマでお世話になったプロデューサーに、「次はどんなドラマをやりたい?」と聞かれたことがきっかけでした。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気のドキュメンタリーを観たばかりだった僕は、その話をして家族の物語をやりたいというふうに伝えました。
そしたらブロデューサーが早速動いてくれて、中国から帰国して間もなくドラマの撮影がスタートすることになったのです。自分の提案した企画が実現したこともあり、今まで足を踏み入れていない場所へ行くような感覚で、いつも以上に前のめりになって撮影に臨んだのを覚えています。
ALSは病気が進行するにつれて、筋肉が弱くなっていくのですが、リアリティを出したくて撮影の初めから終わりまで、結果的に体重を11キロ落としました。通常のダイエットとは異なり、筋肉をつけずに減量しなければいけないのも難題で、専門のトレーナーにアドバイスをしてもらいながら、食事制限などをしていったのです。
役に入り込んでいたことも大きいのですが、無理のある減量だったため、撮影が終わりに近づくにつれ、精神的にも肉体的にもどんどん追い込まれていきました。食べないと、セリフが頭に入ってこないのです。終盤、人前でスピーチをするシーンがあったのですが、かなり長いセリフを覚えなければいけなかったため、そのときだけは魚を食べました。魚を食べるとセリフ覚えが良くなるというのが、僕の持論なんです。
撮影が無事に終了したときは、感謝の気持ちでいっぱいでした。
一方で無責任かもしれないけれども、解放されたという思いもありました。実を言うと、よく覚えていないのです。ただただ、ほっとしていたような気がします。
身も心も完全にのめり込んでいたとのドラマの撮影を終えて、限られた時間で次の作品へ向かうエネルギーを充電するのは、至難のわざでした。相変わらずモチベーションだけは高かったのだけど、情けないことに自分のキャパシティーを超えてしまっていたのです。そして、気持ちの切り替えをうまくできないまま、転がる石のようになってしまいました。
そんな最中に撮影した映画『進撃の巨人』は、最初から最後まで共演者とスタッフのみなさんに支えてもらった現場でした。おかげで不安定な精神状態だったにもかかわらず、役に集中することができたけれども、主役にふさわしい立ち居振る舞いができなかったと反省しています。以前、僕の尊敬する俳優さんが、こんなことを言っていました。主役は物語を動かすメインの演じ手であるだけでなく、現場を仕切る座長のような存在にならなければいけない、と。役に集中して、いい演技をするのは当然のことで、周りのキャストがより集中できる環境を作り出し
て、現場の士気を高めることも、主役の重要な役割なのです。
これまで本番前はいつも、役を作ることに集中したかったので、人と話すことをあえて避けて、演技以外のことに感情やエネルギーをなるべく向けないように努めていました。
だけどこうして何本も主役を任せてもらい、やってみたかったテーマを実現させてもらったりもするなかで、それだけでは足りないと思うようになり、僕自身も主役としてあるべき姿を模索していました。にもかかわらず、自分のことだけで精いっぱいになってしまい、理想とは程遠かった悔しさが残っています。
以前、この本のインタビューで「日に日に演じることが好きになっている」と話しました。「だからこそ演技について真剣に悩み、不安になることが増えたのかもしれない」と。だけど今の僕が同じことを聞かれたら、こんなふうに無邪気に答えることはできません。
2014年の大きな作品を終えて、俳優という仕事を一歩引いたところで冷静に見ているから、無我夢中で突っ走っていたときとは違う感情を抱いているのかもしれない。
今やりたいことは、僕にとっての俳優という仕事の意味、俳優としてできること、さらにはエンターテインメントの役割について、自分なりに深く考えてみたいということです。
俳優という仕事の意味を考えるとき、いつも思い出すことがあります。東日本大震災が起きたとき、僕はちょうどある作品の撮影をしている最中で、地農直後も被害の大きさを知らないまま、その日は撮影を続けていました。すでに撮り終わっていた10分くらいの長いセリフのなかに「濁流」という言葉があったため、後日そのセリフを差し替えることになり、同じシーンを撮り直したりもしました。
もともと決まっていたスケジュールを震災後もこなしていくしかなかった僕が抱いていたのは、役者としてのある種の無力感でした。役者に限らず、芸術やエンターテインメントに関わっている人たちは、当時同じようなことを考えたと思います。
極論を言ってしまうと、人間が生死に直面したとき、僕らの仕事は何もしてあげることができません。誰かを勇気づけることはできるかもしれないけれど、それ以上のことはできないと痛感したのです。
役者も世の中に必要な仕事だと言ってくれる人はいるでしょうし、僕もそうじています。だけど自分がそういったフィールドで働かせてもらっていることを常にわきまえておかなければいけない、ということを展災を通して感じました。
いい役者になる以前にやるべきことは、いい人間になること。”いい人間”というのは、自分で模索していくしかないけれども、そうすることで自分の生き方にもっと自が持てるようになるだろうし、それが俳優としての大きな強みにもなると言じています。これまで武器を持つことにずっとこだわっていたけれども、一番大切なのは「どう生きるか」という武器であることに、ようやく気づくことができたのです。
これからも迷ったり悩んだり、過去を悔やむこともあるだろうけど、急がずにその都度立ち止まって考えればいい。役者である前に、ひとりの人間として人生を大切にしたい。そして楽しい人生を送れることに、日々感謝して生きていきたい。そうすれば、役者として歩むべき道も自ずと見えてくる気がしています。
新しい出会いは、
未知の場所へ僕を誘ってくれる。
これから先、ずっとずっと。
絶えることなく、ずっと。
自国の文化に触れることは
自分の内面に触れることでもあった。
触れる。振れる。
振り子のように”ふれた”、僕の感情。